果物王国おかやまから 美味しい果物をお届けしています。 ご注文は、ご注文カート、SNSのDMからお願いします。

微生物農法


麹菌、酵母菌、乳酸菌、光合成細菌など、健康な作物を栽培する上で有用な細菌を積極的に活用しています。農薬使用量や化学肥料使用量の低減につなげています。

草を生かした土づくり


当園のブドウ畑には、クローバーやカラスノエンドウなどの草が一面に生えています。草を伸ばし適正なタイミングで刈ることを繰り返すことで、柔らかで、微生物やちいさな生物がたくさん棲む、栄養豊富な土作りを行っています。

栽培品目 商品


冬から春にかけては、少量ですがイチゴをお出ししています。夏にはブルーベリーを、そして秋にはいろいろな品種の葡萄を産地直送でお届けしています。また、季節ごとにとれたて果実をコトコト煮詰めたジャム、農園のミツバチたちから頂くハチミツもお届けしています。


季耕舎について

 イギリス19世紀後半の著名な詩人であり工芸家でもあったウィリアム・モリスの著書『ユートピアだより』の中に「楽しみそのものである労働」という言葉を見つけました。生来飽き性の私にとって労働がそのようなものであればどれほど幸いなことでしょう。

 苺やブルーベリーの受粉に欠かせないミツバチ。この春に女王蜂を育成して思い切って2箱から6箱に増群を試みています。小さな命とのふれあいは農家の感性を養う上で決して無駄にはなりません。もちろんハチミツも採れますしね。

 昨年薪にするくるみの木っ端を頂いてから始めた匙作り。ちっとも上達しませんでしたが作家さんのWSに参加させて頂いてようやく匙のカタチになってきました。日々小さな隙間を埋める良い楽しみです。私たちが農園で見つけた小さな楽しみ一つ一つが網目ように繋がり広がって、暮らしも労働も日々の営みの全てが「楽しみそのもの」になりはせぬかと思いを巡らせています。 

 ご縁を頂いた皆様のところへ、そんな「楽しみ」をできるだけ沢山詰め込んだ商品をお届けしたいと思います。   (2017.7.15 たけお)


インティマシーと異質

 農家になって早20年。終の棲家を得て4年が経過しました。気が付けば、我が家の暮らし全体がインティマシー(いとおしさ)で形容しうるものになりつつあるように実感しています。壁や柱を抜き、床を張り替える。壁を塗る。家具や調度品を整えていく。当たり前の暮らしの中で、家のいたるところが家族の手垢で染まっていきます。コーヒーを自家焙煎で楽しむ日々。直火式の簡素な手回し焙煎器や、使い込んでクラックが無数に入り白濁したコーヒードリッパーはいわゆる工業製品ですが、そういう品々にもいとおしさを実感しています。道具との関わり豊かな暮らし、それがインティマシーな暮らしなのかもしれませんね。

 久保田家が一時的に安定の局面にあるとはいえ、社会の変化は著しく、私たち自身も絶えざる変化を求められます。現代社会の病の一つに「正しさへの依存」がありますが、依存は頑なさや束縛を生じます。問題に直面した際に、仮に出した答えは尊重しつつも、常に見直されるべきもの

であるという「自由」な姿勢は保ちたい。カリスマによって断定的に語られる農法はしばしば魅力的ですが、先ずは懐疑的でありたいのです。農法同様、私にとって民藝とは何かを考えるときも、常識よりも自らの実感から

始めたいと思います。

 私にとって民藝とは、水害や台風被害、市況の悪化で苦しむ中、抗しがたく貧しげになっていた暮らしに突然飛び込んできた、「異質」な美しさでした。一つの器から波紋のように広がったインパクトが、暮らし全体を変えていきました。暮らしも心も豊かになっていったのです。好きなものを問われた時、土っぽくて、ミニマムな「会寧のような器だ」と答えているのも、現代社会の器らしい常識的な有り様からは逸脱した存在感に心を震わされているからだと思います。最近教わってハマったのが、エストニア生まれの作曲家アルヴォペルトの音楽です。伝統を咀嚼しつつも、従来のルールを軽やかに逸脱している。音それ自体、単調なリズムそれ自体を感じさせてくれる音楽。私にとって民藝は暮らしの中に自覚的に取り入れる「異質」な美しさなのです。

 昨年のコラムで、私は民藝は我が家の「贅沢」であることを認め、豊かな暮らしを実現するものとして「贅沢」を肯定しました。今回の思索も踏まえていうならば、暮らしの道具でありながら、道具である必要を超えて美しい贅沢なもの、私の民藝とはそういうものです。相反するような価値観であるインティマシー(いとおしさ)と異質さ(美)の共存に、民藝の独自性があると言いたい。日常の道具でありながらファインアートでもありうるなんて、ワクワクします。

 民藝は、日々疲れ、悩み苦しむ私の心を励ましてくれるものです。季耕舎のぶどうも単に食物であることを超えて、皆様の英気を養い、癒しの一助ともなりますように願って已みません。

                                                   (2023.7 園主)

 

 

マグ30個問題

 「民藝とは何か」という興味深いが際限のない議論はいったん判断停止して、すぐにでも抜くべき毒矢が私にはありました。それが「マグ30個問題」です。

 私と妻専用、家族共用を合わせて、ざっとこのくらいが食器棚並んでいます。季節に応じて、天候に応じて、飲み物に応じて、気分に応じて使い分けたいのでどれも欠なマグですが、たしかに必要を超えた数ではあります。我が家を訪れた人の口からも時折「ぜいたくな暮らしね」という言葉が聞こえてきます。嬉しさと罪悪感の混濁した「贅沢な暮らし」。私のこの贅沢は赦されるや否や。

 人が「贅沢な暮らし」というとき、多くの場合、不必要な支出、過度の支出、いわば無駄遣いを非難する意味合いが混ざります。「清貧」という価値観の呪縛に囚われている、昭和を生きてきた私より上の世代には受け入れがたいこのニュアンスを、意図せず発された言葉の中からでさえ嗅ぎ取ってしまうのです。        

 さて、現代において民藝の品々を暮らしに取り入れたいと考えている多くの人が求めているのは、潔癖な「清貧」よりも、満ち足りた「豊かな暮らし」でしょう。無駄を排した必要最低限の「貧」な暮らしではない。そして私自身が求めているのも、気が付けば家族との「豊かな暮らし」でした。贅沢を恥じ恐れていては自らが求めるものから遠ざかるばかりですから、清貧礼賛こそ改めねばならぬのです。

 次に考えておかねばならないのは、浪費と消費の区別です。使い切れないくらいの買い物は浪費ですが、これは贅沢の範疇です。私が慎まねばならないのは消費の方です。消費には際限がありません。消費は、ものそれ自体を目的にせず、ものに付与されたイメージを消費しますから、消費には満足がありません。満たされない暮らしの罠にはまると、それとは対極である豊かな暮らしには決して到りません。繰り返しますが、消費は贅沢ではありません。絶えざる不足感が、消費の正体なのですから。そして、消費社会が作り出す絶えざる不足感に翻弄されている人々は、「満たされている自分」を見失っていると言えるでしょう。    

 マグカップを手にする時、最高の豆と道具と気配りで淹れたコーヒーをゆっくりと口に含む時、きれいに洗って食器棚に戻すその時に、私がより私であるだろうか。今を見失わず満たされているだろうか。インスタのあの人のあのマグが気になって目の前の珈琲の豊かな味わいも魅力あふれるマグから目を背けてはいまいか。この不断の問いが、浪費と消費を区別する鍵になるでしょう。

 私の結論はこうです。私の沢山のマグは贅沢で浪費であるけれど、だからこそ私の暮らしは豊かである。明日もまた、良いものに出会い、買い、味わいます。季耕舎のぶどうも、皆様の暮らしを豊かにする贅沢なものでありますように。  

(万事大げさな園主2022.7)

日々の暮らし

 もうすぐ三歳になる末娘は、おしゃべりも自己主張も今では家族一。泣いたり笑ったり忙しく、家族皆で手を焼いています。農家の娘なのに手の汚れを嫌うので、ジャガイモ掘りの手伝いでは大騒ぎ。

 小六になった息子は、10キロ先の友達の家まで自転車で遊びに行くようになりました。いつも何か楽しいことを探しています。優しいお兄ちゃんで、妹に泣かされてしまうこともしばしば。

 長女は中三、受験生。バスケットボール部は引退しましたが、晴れた日の10キロの自転車通学は続けています。体力も背丈も母を超え、農作業でも大人並みに活躍するようになりました。心も成長し、ますますしっかり者になりました。

 私は農作業と家事の合間のミシンを変わらず楽しんでいます。去年より畑の世話が行き届いて、雨のおかげもあり夏野菜が絶好調で喜んでいます。できる限り自分で作るという暮らしは、農家の私たちにぴったりです。

(みずえ2021.7)